長女の出産
前回、血に関連してと述べたが、出産で血を見て沖が卒倒したとかそんなことではない。
実際、血は一滴も見なかった。というよりも見せないようしてくれた。
妻は沖が血が苦手であることを憂慮し、どういう出産にしたいかという確認書にその旨記載し提出していた。
予定日よりも前に陣痛はきた。夜、病院へ向かってから夜通し妻は断続的な痛みに耐え続けた。
子宮口は10センチ開くのが目安とのことだが、夜明け前、看護師からまだ2センチしか開いていないと聞き我々は愕然とした。
しかし考える隙も無く痛みが押しては引いていく。
夜が明けてようやく子宮口が開いてきた。それでもなかなかすんなりとはいかず妻は非常に苦しそうだった。
そのうちに看護師が医師を呼んで!とやや慌て気味で指示をしたため、沖は緊張の糸がピーンと張り詰めた。何かやばいの…?と心臓がバクバクした。
ベットの手すりを目一杯に握る妻の手を上から握ってあげることだけが沖の出来ることだった。
格好つけるわけではなく、こういう時言葉はいらない。
「頑張れ!」と言っても「もう頑張ってるわ!」
「もう少し」と言っても「お前に何が分かんねん!」
この状況で男が吐くどんな言葉も遠く薄く軽く弱い。
そして医師が来るなり妻に酸素マスクを付けた。
この状況になると、妻が死んでしまうのではないかと気が気でなかった。
それから数時間、状況をつぶさに観察することは出来ていない。真っ暗な世界にいたように余裕を失っていた。ただひたすらに「頼む!」と心の中で何度も叫んだ。対象は医師だ。頼むから妻を死なせないで!
朝、悲願の瞬間は訪れた。赤ちゃんがこの世界で始めて泣いた。
沖も泣いた。
正確にはそれより前に沖は泣いていた。号泣した。
こんなに泣くのは、家族が死ぬ時か産まれた時だけだと思う。
妻は苦痛に耐えながらも冷静だった。
妻が多少なりとも豹変することを覚悟していた。
友達の姉が出産した時の話を聞いていたからだ。
友達の姉は非常に温厚な性格であり、友達でさえ怒ったところを見たことがないというほどであった。しかし出産の際、聞き違いによる些細な誤りをおこした母親に対して、「死ね!」と叫んだらしい。
お腹から命を生もうとする人が口では死ねと言う人になっているのがおかしくて、聞いた時は笑ってしまった。
我を忘れるほどに命懸けなんだ。
立ち会いをして本当に良かった。
赤ちゃんの指の数を確認してくださいと言われ5本5本で10本ですね? はい。 というやり取りがあった。もし8本7本で15本ですね?と言われても はい。 と言っていたと思う。そんなことは後で考えようと無我の境地であった。
それよりも赤ちゃんが元気に産まれてきてくれたこと、妻が無事なこと、沖に血を見せないようにしてくれたこと、力んだために目が真っ赤に充血してること、色んなことが混在して安心と感謝の気持ちでいっぱいだった。
この時、俺は妻子のために身を粉にして働いてやる!と決意した。
でも我ながら不甲斐ない男と思う。
情熱大陸を見た時に俺もこの人みたいに頑張ろう!と決意することがある。でも寝ると情熱大陸を見る前の沖に戻っているのだ。
今回も基本に忠実であった。結局妻の5日の入院中は毎日、長時間病院にいた。
ポジティブな決意はすぐ忘れるくせに、不安や気がかりなことは忘れられない。都合の悪い脳みそだ。
この日、子供が産まれ、母も生まれた。でも父はまだ生まれていない。妻に子供が2人いるような家族だ。沖よ。はやく父になれ。沖より。